大佛寺は後世に伝わる記録では、寛元二年(1243)にこの地に開かれたと言われています。
「1243年(寛元元年)に道元禅師は吉峰寺に入りましたが、翌1244年(寛元二年)
にはここに大佛寺を開堂しました。この大佛寺は永平寺の前の寺名で,永平寺3世
義介禅師の時に現在の場所に移されたと推定されています。道元禅師はこの場所で
『正法眼蔵』を著述し、1246年(寛元四年)には寺名を「永平寺」と改めました。
(現地の説明板より)
仙尾山手前の林道と山道の交差点にある説明板
石列で囲われた奥の一段高い場所には4体の石仏がバラバラに置かれていて、岩がゴロゴロ無造作に散らばっています。
ここも寺域の範囲になるのでしょうが、中心部はこの一角の南側、笹藪になっている平地一体だと思われます。大きく2,3段になって広がっている平地、東西南北約30m四方はあるでしょうか、寛元二年に法堂や僧堂を整備し、あらかたの伽藍配置は整ったと言われていますが、そこから、この場所では狭すぎるとして、道元が最初に立てたのはやはり現在の場所に移ってからだという意見が厳然として立ちはだかってきます。
大佛寺山山頂
しかし話が重なってきますが、城歩きマンは当初の伽藍が、言われるようにきちんと整えられたものとは思っておりません。今、目の前にしている大佛寺跡はその後の道元の法話の中に示されるように、山深い、谷奥の庵から出発した、という印象が当たっていて、的を得ているように思えます。
大佛寺跡遠景(大佛寺山斜面から)
一日も早く、当否の事実を得る方策を立てるべきだと思います。大本山永平寺がこうした、寺発祥の問題を軽々しく扱うようなことは絶対ない、と思うのですが、なんだか天皇陵の問題にダブって見えるのは城歩きマンだけでしょうか…。
大佛寺跡(近景,南から)
現地の踏査を終えて帰途につきます。下りの道は上りの道にも増して急勾配で下っています。石段や擬木の階段があるのはあるのですが、谷道で,毎年、毎年の雨や雪で崩れ、あるいは流れて非常に歩きにくい山道となっています。直ぐ横が谷川で、どうかすると谷川をまたぎながらの下り道でした。
祖跡コース順路2(国土地理院電子地図を引用、一部改変)
下山して永平寺ダムの大仏湖に到着したのは午後4時30分を回っていたかと思います。いろいろと肉体的にはきつい山行きでしたが、大佛寺跡の現地踏査という観点では得がたい経験をした、という貴重な一日になりました。
途中の祝山から仙尾山にかけては、「湯谷・大仏線」の林道が交差する場所があり、その林道を歩きながら、九頭竜川の北に見える奥越山地、さらにその奥の白山連峰の山並みが時折陽のさす晴れ間から雪を被っているのがみえて一同感激。これも山歩きならではの得点です。参加者一同、口々に今度また来よう、来ようと同じ台詞を口走る始末。
大佛寺跡の位置(緑の○)
今日の無事に対して山の神様に感謝。